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連載介護小説「ユウキの日記」vol.9

第9話「おばちゃんは、やっぱりおばちゃんだね」

【前回までのあらすじ】
伯母の介護のため、介護職員初任者研修(ホームヘルパー2級)の資格講座を受講し始めた有紀。
便利な介護術を習えるものと思いきや、実際の授業でやるのは座学ばかり。期待外れの内容に、有紀は眠い目をこすりながら払った受講料を悔やんでいた。
しかし授業で触れたある老人の手紙に、自分の思い違いに気付いて……。

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「何故、この方はご自分の便をこねたんだと思いますか?」

初任者研修の授業は、教科書の内容よりも先生たちの実体験の話の方が勉強になりました。
どの先生も以前は現場で仕事をしていた人ばかりで、全てに真実という重みがあったからです。

中でも忘れられないのが「便汚染」の話。
当時、特別養護老人ホームに勤めていたある先生。夜勤の時、ある部屋へおむつを替えに向かうと、その部屋の利用者さんがおむつを外して自分の便をこねていたそうです。
壁もシーツも便を拭いたあとが広がり、悪臭も酷く、まさに便まみれの光景が広がって……。

私は、この話に伯母や父の経験が重なってゾッとなりました。
実際、こんな光景を目の当たりにしたら正気ではいられない。そう思っていると、先生はにこやかに言ったのです。

「何故、この方はご自分の便をこねたんだと思いますか?」
これに、私を含めた生徒たちは「認知症だから」と答えました。
「認知症になって、頭がおかしくなってしまったから」と。
すると先生は「今のは半分だけ正解です。あと半分。分かる人はいますか?」と続けました。
(あと半分って、何だろう?)
教室の誰もが、答えが分からず口ごもっていると……。

「では、ヒントです。この方は、日中は自分のおむつを外して便をこねたりはしません。
職員が定期的に声掛けして、お手洗いにお連れするからです。
ですが、この時は職員がいない真夜中。多分、不意の便意に襲われたと思います。
……さあ、この方になったつもりで想像してみてください

もし、自分が認知症老人の立場だったら

誰も居ない真夜中……私は目を閉じ考えてみました。

自分が認知症になった。
色々なことが上手く思い出せなくなり、上手に出来なくなった。
とても悔しい。とても辛い。
昼間は助けを求めれば、誰かが自分をトイレに連れて行ってくれる。
失敗しても、きれいに洗って取り替えてくれる。
けれど、今は誰もいない。いないのに、便が出そう。
もう我慢できない!ああ、出てしまった。どうしよう。
お尻が気持ち悪い。
このまま便が出たパンツをはいて朝まで待つのか。
それは辛い。辛い。
「……自分で、おむつを替えようとした?」

誰かがつぶやきました。

「はい、正解!この人は、自分で便の付いたおむつを履き替えようとしたんです。
でも、認知症の為に動作がちぐはぐになり混乱してしまった。多分、トイレで脱ぐべきおむつを最初に脱いでしまったんでしょう。
困った!きれいにしたい!でも拭き取るものがない。失敗した恥ずかしさや、隠したい気持ちもあったでしょう。
仕方なく手や周りのモノで拭いたりしたところに職員が現れた、というわけです」
私はこの話に、はっきりとその利用者さんの顔や表情が見えたような気がしました。
とても情けなくしょんぼりと、職員を見つめている老人の顔。
私が知らないはずの、お父さんの、顔……。

「認知症を患うと、不可解な行動が増えていきます。
ですが、全てに理由があるのです。心を砕いて寄り添えば、分かることばかりです。
だから、頭が壊れたのだから仕方がないと安易に片づけないでください。
認知症は、決して理解不能の病気ではありません。
認知症になったからと言って、その人の人間性が終わるわけではないのです

久しぶりの、伯母との会話

その翌日、私は久しぶりにテレビをぼんやりと見つめる伯母に話しかけてみました。
ちょうど、太巻きを作っている映像でした。
「おばちゃん。随分大きな太巻きだねえ」
すると、最近は息をしているだけに見えた叔母が小さい声で「一口で、お腹いっぱいになるなあ」と、笑ってくれたのです。
「ご飯食べて」「おむつ替えるよ」そんな言葉には無反応だった伯母。
でも、こんな他愛もない話に答えてくれるなんて。
以前と同じ笑顔を見せてくれるなんて。

「おばちゃんは、やっぱりおばちゃんだね」

私はなんだかうれしくなって、その痩せた背中を撫でてみました。
すると、伯母はそっと私に体を預けてくれたのです。

それは遠くに行ってしまった伯母が、ふいに戻って来てくれた瞬間でした。

【つづく】
※この作品は、登場人物のプライバシーに配慮して設定を変えていますが、私が体験した事実に基づいた物語です。

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